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43期 門田氏に寄稿いただきました 「旭陵関西」25号発行にあたり
43期 門田宰
「旭陵関西」が創刊されたのは関西支部再建総会二年後、96年である。31期の内藤先輩他数人が編集に当たられた。
何をするにしても最初が一番大変である。記事集め、内容、題字、紙面構成、広告、予算。大変なご苦労があったと思う。
私が「旭陵関西」の編集を引き継いだのは04年9号からである。
高校時代、「西高新聞」の編集に明け暮れていた。当時は凸版印刷。印刷所は活字を集めて組み合わせ、大きな見出し、カット、写真などは凸版を作る。ゲラ刷りが上がってくると、印刷所に詰めっきりで校正にあたった。校正は、誤字だけでなく、ひっくり返った文字も治す。大きな見出しが気に入らなければ凸版の作り直し。数日かかる。現在はデジタル化で各段に楽になった。
10号の記念号、その年の講演は、土居ケ浜の発掘調査を、京都大学大学院時代に行った、金関恕氏にお願いした。会報掲載の写真のために、北京へ出張される直前の金関氏にお会いし写真を撮らせていただいた。
原稿に書かれた場所を撮影するため、現地に行ったこともある。
10号発行後、これまで寄稿いただいた方のデータを取ってみた。43期が圧倒的に多く、17人、20件。その後も43期の仲間には、何度も寄稿いただき、助けられた。
06年東京に転勤となり、2年間は東京で編集にあたる。
11号からは紙面の文字を大きくした。
この年の総会で講演をいただいた、映画監督佐々部清氏が先日亡くなられた。彼の「チルソクの夏」、「カーテンコール」は、懐かしい下関の街を想い起こさせる。佐々部監督のご冥福をお祈りいたします。
08年東京から帰ってきて最初の総会は、最高裁長官を退いたばかりの、32期の町田顯氏。実に公私の「私」、がない日常、大変なご苦労がうかがえた。
09年の14号は、これまで印刷を依頼していた「エイシン印刷」が突然倒産、急に新しい印刷所を捜すことになる。幸い、48期中野光男氏が専務の「富士精版印刷」がうけていただくことになり無事発行を継続、費用もこれまでより安く広告費で十分賄えるようになった。
10年の総会は直木賞作家「古川薫氏」に再び来場いただく。二度目だが、今回は「田中絹代ぶんか館」館長としての講演。
唐戸にある「田中絹代ぶんか館」を16年初めて訪れてみた。前年に亡くなられた、船戸与一氏(39期)のコーナーが設けられていた。
99年の第6回総会で講演いただいき、翌年00年に直木賞を受賞された。
11年3月、東日本大震災。総会は、同期43期の岡村定矩氏(当時東京大教授)にお願いした。演題は「宇宙ってなんだか知っていますか?」。前日、同期の安田氏が店長の「味鉄」に43期が集まる。
13年18号、総会は二十回目。この年3月に関西支部創立以来役員をやられていた42期末光氏、8月には元支部長の甲斐敏晴先生が亡くなられた。公私ともに大変お世話になったお二人である。会報、総会の案内状発送作業は、甲斐先生のみどりヶ丘病院の一室をお借りしてやっていた。
前支部長の杉君も故郷に帰り、そろそろ自分も身を引く頃かと思い、この18号を最後に、「旭陵関西」の編集を後輩に託すことにした。
同窓会誌の目的は、会員同士の交流を第一とし、さらには故郷下関を身近に感じていただく。そういう意味で、ぜひ皆様に「旭陵関西」にご登場いただきたいとお願いする次第である。
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